スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

改善魂やまず(23)――金融危機後、原点へ回帰

トヨタ自動車元技監 林南八氏

2016/3/31 

 突然、取締役に。

 2008年に発生した米リーマン・ショックで世界経済が大混乱、自動車生産も大幅減となりました。超円高とバブル時代の投資も足かせとなり、トヨタ自動車の09年3月期決算は最終赤字に転落。長いトンネルに突入しました。全社を挙げてPI80活動(1ドル=80円でも利益が出せる活動)など色々な切り口で改革に取り組みました。


 この時期、私(当時65歳)に取締役(専務待遇)就任の御下命があったのも、今一度「原点回帰」という豊田章男社長の強い思いがあったと思います。

 その頃、すでに新美篤志副社長(現ジェイテクト会長)の肝煎りでショップ(仕事の領域)軸活動が始まっていました。同一ショップの現場と生産技術のスタッフがチームをつくり、現地現物で現場の困り事に技術的メスを入れ対策を図り、横展開する活動です。これが軌道に乗り、今まで当たり前と思われていたことに風穴が開き、改革が進みつつあります。

 例えば、ダイカストマシンで段取り替えの後の捨て打ち(試し打ち)なしで最初の1個目から良品にする挑戦。あるいは型の製作費を半減する試みや、生産ラインの長さも半分に抑えたスリムでコンパクトなライン造りなどがそうです。別の建屋でバッチ処理していた熱処理や塗装工程を小型設備で1個流しにこだわり、加工ラインにインライン化してリードタイムの短縮を図るなど、着実に具現化しつつあります。

 こうした取り組みは昔、大野耐一さんや鈴村喜久男さんの指示で挑戦し、プロトタイプはできたものの当時は増産に次ぐ増産で日の目を見ませんでしたが、ようやくトヨタ生産方式のあるべき姿に近づきつつあるように思います。円安も追い風となり業績は回復しましたが、まだまだ安心できるレベルではありません。


企業と国家の存亡。

 地産地消はモノづくりの原則ではありますが、日本は貿易立国であることを忘れてはいけません。為替変動に一喜一憂しないで済むよう海外に生産拠点を移せば企業は存続するものの、海外に移した分だけ国内の雇用が減少します。一次取引先メーカーは海外展開する力はありますが、二次・三次の中小企業は海外展開に課題が多いのが実情です。中小企業の破綻は日本の製造業の破綻、そして技術立国日本の破綻につながると考えるべきでしょう。

 豊田社長がトヨタの国内生産300万台を死守すると言っているのは企業の存亡だけでなく、国家の存亡を考えた上での決断なのです。当然、日本で生産したモノが海外で競争に勝てなければ話になりません。日本の生産性を向上する余地はまだまだあります。大野さんが挑戦した時に比べ、我々ははるかに恵まれていると考えるべきです。


【この記事は2013年7月24日付の日経産業新聞の記事を転載】
スポンサーサイト

改善魂やまず(22)――価値ある異業種との出会い

トヨタ自動車元技監 林南八氏

2016/3/28 

 異業種にトヨタ式を導入。

 1982年、ウシオ電機の社長だった木下幹彌さんがウシオ電機を立て直し、社長を降りられました。その際、株式会社MIPを立ち上げ、異業種にトヨタ生産方式を展開しようと「NPS研究会」を開きました。当時、大野耐一さんも鈴村喜久男さんもトヨタを退職しておられたので、豊田英二会長(当時)の了解を得て大野さんを最高顧問に、鈴村さんを実践委員長に招き、立ち上げ後1年で活動を本格化させました。

 40~50社が参加した大きな研究会になりましたが、異業種ですのでトヨタ生産方式(TPS)とは言わずにニュープロダクションシステム(NPS)という名称を用いました。NPSのルーツはTPSですが、当時から製造現場だけでなく、開発、製造、営業販売と一気通貫で取り組む研究会で、経営そのものの改革を狙っていました。

 恩師の鈴村実践委員長が「お前も勉強したけりゃ顔を出してもいいぞ」と声を掛けて下さいましたが、当時は製造課長になりたてで、長期出張で席を空けるわけにはいきません。土日を使って通うことで勉強させていただきました。外食産業や食料品メーカーなど多種多様でトヨタではできない体験を積むことができました。


トヨタと提携。

 大野さん、鈴村さんが他界し、鈴村さんが当初連れて行かれたトヨタOB(大野学校の現業の門下生)も高齢になり、先行きを心配されたMIPの木下社長が「日本の産業を守りたい。この活動を継続していくためにもトヨタとアライアンスを組みたい」との申し入れがありました。

 当時社長だった張富士夫さんも「大野さんと鈴村さんが最後に手掛けた仕事でもあり、トヨタの理念とも合致するのでぜひやりましょう」ということで、2001年3月23日、当時取締役の豊田章男さん立ち会いの下、張社長と木下社長で調印が交わされました。現在も活動の連携だけでなく、人的交流もなされており、鈴村さんが務められていた取締役実践委員長は、トヨタ生産調査室OBの遠山保宣さんが引き継ぎ、立派に活躍しています。

 この関係と経験がその後のトヨタの活動にも大いにプラスになりました。例えば、郵政事業の改善のお手伝いや、流通業界の物流基地の改善、経団連からの依頼で手掛けた農業の改善、病院の合理化等、異業種との出会いがあったからできたものと思っています。

 章一郎名誉会長(当時社長)の指示で米国に設けたTSSC(トヨタサプライヤーズサポートセンター)も生産調査室の経験者を送り込み、日米貿易摩擦を緩和するため米国のサプライヤーや他業界を指導するだけでなく、病院の合理化など幅広く活躍中です。


【この記事は2013年7月23日付の日経産業新聞の記事を転載】

改善魂やまず(21)――インフラ整備、10日で終了

トヨタ自動車元技監 林南八氏

2016/3/25 

 前提を変えろ。

 東日本大震災で被災したマイコンメーカー、ルネサスエレクトロニクスの支援では当初、復旧には2011年いっぱいかかるとのことでした。とんでもない。何としてでも短縮を図らねば。ということで、インフラ整備にかかる2・5カ月(75日)を短縮することから始めることとし、同社側に3つの提案をしました。


 (1)「見積もりを出した時の前提条件を全て外し75日を10日でやる方法を考える。要員は見積もりの前提になった時点の3倍、それを3シフト用意する。つまり9倍投入する」

 (2)「リンクチャートを使って、並行作業できるもの、外段取りできるものを整理し、全業者がワンチームで動けるようにすること」

 (3)「フロアごとに大部屋を用意して進捗が見えるようにすること。全て現地現物、即断即決、即実行ができる体制をとること」

 後は、私は黙って現地本部の机に座っていました。朝倉正司君はチームの重し役。好田博昭主査が実質的なリーダーとして星野豪志主幹と五十子泰宣主幹を使って仕切ってくれました。

 トップも現地現物。

 豊田章男社長も作業着とヘルメット姿で現地を訪れました。見れば実態がわかるようにしてあるため、開口一番「責任は私が取ります。思ったとおりにやってください。困ったことがあったら何でも言ってください」との一言。

 こう言われたらやるしかありません。現場が一気に盛り上がりました。この一言でリーダーのあるべき姿を垣間見た気がして、心強く思うと同時に誇らしく思ったものです。


キヤノンの御手洗冨士夫会長も駆けつけてくれました。会長の一言で、ルネサス向けに自社のリソースを大動員してくださいました。ニコンも東京エレクトロンも同様の対応をしてくださり、半導体製造の肝に当たる設備は短期間で修復することができました。

 復旧作業中、フロアごとの大部屋では進捗の『見える化』とミーティングを徹底しました。ルールは単純で、うまくいった報告は一切不要。うまくいかない部分を顕在化して皆で知恵を出し合い、解決しました。現場ではこの繰り返しを連日行ってくれました。

 当初、皆が不可能だと思っていたインフラ整備が10日で終了。ルネサスのメンバーの中には「自動車屋に何ができるのか」と斜めに構える人もいましたが、この頃は互いに信頼関係ができ、まさにワンチーム。ルネサスの青柳隆工場長や鶴丸哲哉執行役員生産本部長(現社長)が先頭に立ち、ついに生産開始を6カ月早めることができました。

 今回の活動で得られた果実は、業界を超え、会社を超え、組織を超えて強い絆が出来たこと。そして若いリーダーの台頭があったことだと思います。


【この記事は2013年7月22日付の日経産業新聞の記事を転載】

改善魂やまず(19)――トヨタ方式 海外でも評価

トヨタ自動車元技監 林南八氏

2016/3/18 


 トヨタ生産方式(TPS)を海外に伝道。

 毎月1回、海外出張する生活が続きました。海外でも現地現物でものを見て考え、行動する文化を定着させることが私のミッションです。副社長級の米国人幹部、ゲーリー・コンビスさん、レイ・タンゲイさん、スティーブ・アンジェロさんらが必ず私について現場を歩いてくれました。

海外の工場にもTPSが広がり始めた=共同海外の工場にもTPSが広がり始めた=共同

 毎日見ているつもりの現場がいかに見えていなかったかを体得してもらうため、6時間ぶっ続けで現場観察したこともありました。彼らは音をあげずについて来てくれました。日本人以上にTPSを理解してくれたと思います。

 欠点は一度軌道に乗るとそのまま継続できると錯覚することです。やはり毎日現場に出てフォローすることが不可欠です。こればかりは理屈でなく体に教え込むしかありません。私は今でも毎日作業着と安全靴で時間をつくっては現場に出るよう心掛けています。

 1990年、マサチューセッツ工科大学(MIT)のジェームズ・ウォーマック教授らがまとめた『ザ・マシン・ザット・チェンジ・ザ・ワールド』の中でTPSがリーン・プロダクション・システムという名で世界に紹介されました。



 米ハーバード大学のケント・ボウエン教授も経営学修士(MBA)課程で行っているケーススタディーについて「これは正解がない課題で皆に考えさせることを狙った教材だ。大野耐一さんが私よりはるか前に考えさせる教育を実践されていたことは驚きだ。素晴らしい教育者だ」と言っておられたという話を聞き、大いに共感を覚えました。

 『ザ・トヨタウェイ』を書かれたミシガン大学のジェフリー・ライカー教授や、『ザ・ゴール』を書かれたエリヤフ・ゴールドラット教授も大野さんの信奉者です。お会いして話を伺いましたが非常に深く理解されていました。TPSを日本だけに定着する特殊な宗教のように言うのは大きな間違いだと思います。

改善魂やまず(14)――若き豊田章男氏と出会う

トヨタ自動車元技監 林南八氏

2016/2/19 

製造課長としての仕事に専念する。

 一番苦労したのがけがの撲滅でした。就任早々毎月のようにけがが発生しました。発生する都度、状況の説明と謝罪に役員である工場長の所へ出向きますが、それはもうコテンパンに叱られました。内心では「そんなこと言われても、この設備を入れたのは私の前任者の時のこと」などと自分を慰めていましたが、そうしたうちはけがは一向に減りませんでした。自分の取り組み姿勢に問題があると気付いてから、少しずつ好転していった気がします。

豊田章男氏との出会い。

 ある日、部長に呼ばれ「豊田章一郎社長(当時)の御子息がトヨタに入られ元町工務部(愛知県豊田市)に配属された。今年2年目で君の課を担当してもらうことになった」と切り出されました。あわせて「昼から君の現場を御案内するように」との指示です。

 なぜ私が新入社員の御案内をせにゃいかんのか。多少頭に来ましたが、どうせ甘ちゃんのボンボンだろうと高をくくっていたら、ガッチリした体格で腰が低く上品な青年が現れました。 こんな好青年を特別扱いしてダメにしてはいけないと思い「君は入社2年目か。目いっぱい叱られたことはあるか」と聞くと「ありません」との答え。「それは不幸なことだ。この一年幸せにするから覚悟しておけ」。本人は「よろしくお願いします」との返事です。そこで私は自分の部下には彼が社長の御子息であるということは伏せておくことにしました。


ある日、モデルチェンジのタイミングで旧型部品の打ち切り数を間違える事件が起きました。夜8時を回ったころです。豊田君が飛び込んできて「このままではラインが止まります。どうしましょうか」。

 「どちらのミスかわからんが、こういう時に何とかするのが工務部の仕事じゃないのか」と言って追い返したところ、一目散に事務所を出ていきました。しかし一向に帰ってこないので部下に「豊田君はどこへ行った」と聞くと「9時ごろ一人で部品メーカーに取りに行きました」との答え。「お前ら、俺をクビにする気か。彼は社長の御曹司だぞ。何かあったらどうするんだ」。皆が真っ青になっているところに、本人は該当部品を担いで「どうだ」と言わんばかりの表情で帰ってきました。

 皆に心配を掛けたことについてはきつく叱りましたが、そのメーカーは昼勤だけの会社で夜は守衛がいるだけです。守衛を起こし、工場に電気をつけ該当部品を探し当て「これが『かんばん』だ」と言って平社員の自分の名刺をかんばん代わりに一枚置いて部品を持ってきたとのこと。大した度胸です。こいつはただ者ではないなと、強く印象付けられた出来事でした。


【この記事は2013年7月2日付の日経産業新聞の記事を転載】
検索フォーム
最新記事
最新コメント
カテゴリ
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
FC2オンラインカウンター ここから --> 現在の閲覧者数: