問われない限りは自分からは言わない

第79段

何事も入りたたぬさましたるぞよき。
よき人は、
 知りたる事とて、
 さのみ知り顔にやは言ふ。
片田舎よりさし出でたる人こそ、
 万の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。
されば、
 世に恥づかしきかたもあれど、
 自らもいみじと思へる気色、かたくななり。


よくわきまえたる道には、
 必ず口重く、
 問はぬ限りは言はぬこそ、
 いみじけれ。



[現代語訳]

何事にも、
 深く知っている振りをしないのが良い。
教養のある人は、
 知っていることだからといって、
 そんなに物知り顔で言うだろうか。
田舎から出てきたような無教養な人こそ、
 すべての道に精通している様子で
 知ったかぶって受け答えをするものである。
だから、
 世の中には恥ずかしい知ったかぶりの人もいるものだが、
 自分では凄いだろうと思っている様子が、
 何ともみっともない。

よく知っている道であっても、
 口を重くして軽々しく語らず、
問われない限りは自分からは言わない、
そういった態度こそ素晴らしい。
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大事なことは、先に済ませるようにしましょう

49段

老(おい)来りて、
 始めて道を行ぜんと待つことなかれ。
古き墳(つか)、
 多くはこれ少年の人なり。
はからざるに病を受けて、
 忽ち(たちまち)にこの世を去らんとする時にこそ、
始めて、
 過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。
誤りといふは、
 他の事にあらず、

 
速かにすべき事を緩くし、
 緩くすべき事を急ぎて、
 過ぎにし事の悔しきなり。


その時悔ゆとも、かひあらんや。

人は、ただ、
 無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、
 束の間も忘るまじきなり。
さらば、などか、
 この世の濁りも薄く、
 仏道を勤むる心もまめやかならざらん。

「昔ありける聖は、
 人来りて自他の要事を言ふ時、
 答へて云はく、

『今、火急の事ありて、既に朝夕に逼れり(せまれり)』とて、
 耳をふたぎて念仏して、
 つひに往生を遂げけり」と、
 禅林の十因に侍り。
心戒といひける聖は、
 余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、
 静かにつゐけることだになく、
 常はうづくまりてのみぞありける。


[現代語訳]

老いが迫ってきてから初めて、
 仏道の修行をしようというのではいけない。
古い墓も、
 多くは少年の墓である。
予想もせずに病気にかかり、
 間もなくこの世を去ろうとする時にこそ、
 過去の誤っていた行いが思い出されてくる。
誤りというのは他でもない。

優先して速やかにすべき事を
 後回しにして、
後でもできる事を
 急いでやったということであり、
こういった過去の過ちを
 悔しく感じるのである。


しかし、
 死が差し迫った時に後悔しても、
 どうしようもない。

人間はただ諸行無常の真理の下に、
 死が迫ってくることをしっかり意識して、
 わずかの間といえども、
 それを忘れてはならないのである。
そうすれば、
 俗世の煩悩も弱まっていき、
 仏道に精進しようという心も切実なものになっていくのだ。

禅林の永観が書いた『往生十因』には、
 『ある僧は人が訪ねてきても念仏をやめようとはせず、
 「いま火急の事があって、
 すでに朝夕(死)が迫り余裕がない」と答えた。

そのまま、
 耳をふさいで念仏を唱え続けて、
 遂に極楽往生を果たした』とある。
心戒という聖人の僧侶は、
 この世があまりに仮のものに過ぎないと思って、
 座る時にも尻をつける事がなく、
 常にうずくまっていたと言われている。


[解説]

人は、
 すぐに実行すべきことを後回しにして、
 後回しにすべきことを先にしていることが多い。

その結果、
 本当に大切なことをする時間が無くなって、
 後で後悔するのです。

大事なことは、先に済ませるようにしましょう。


二本の矢を持ってはならない

第92段

或人、
 弓射る事を習ふに、
 諸矢(もろや)をたばさみて的に向ふ。

師の云はく、
 『初心の人、
   二つの矢を持つ事なかれ。
  後の矢を頼みて、
   始めの矢に等閑の心あり。
  毎度、
   ただ、
   得失なく、
   この一矢に定むべしと思へ』と云ふ。

わづかに二つの矢、
 師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。
懈怠の心、
 みづから知らずといへども、
 師これを知る。
この戒め、万事にわたるべし。

道を学する人、
 夕には朝あらん事を思ひ、
 朝には夕あらん事を思ひて、
 重ねてねんごろに修せんことを期す。

況んや(いわんや)、
 一刹那の中において、
 懈怠の心ある事を知らんや。
何ぞ、
 ただ今の一念において、
 直ちにする事の甚だ難き。



[現代語訳]

ある人が弓を射る技術を習い、
 二本の矢を手に挟んで的に向かっていく。

これを見た
 弓の師匠が言った。

『初心者は、
  二本の矢を持ってはならない。
 後の矢を頼りにして、
  始めの矢を適当にする心が生まれる。
 何回も的に当たるか当たらないかを考えるのではなく、
 いつもこの一矢で決めると思え』
と。

わずかに二本の矢、
 師匠の前で無駄にしようなどと思うものか。
緩んだ緊張感のない心は、
 自分では気がつかなくても、
 師はそれを知っている。
この戒めは、
 万事に及ぶものだ。

仏道を学ぶ者は、
 夕方には明日の朝があるさと思い、
 朝には夕方があるさと思って、
 何度も繰り返してしっかり修行しようとするものだ。
どうして、
 僅かな瞬間の中で、
 怠けた心のある事など知ることができるだろうか。
どうして、
 今この瞬間の一念(意志)によって、
 すぐにやろうとする事がこんなにも難しいのだろうか。


[解説]

二本の矢を持つと、
 二本目があると思って安心してしまうので、
 一本目に対する心構えがおろそかになってしまいます。

それでは、
 弓は上達しません。


「二本目は無い」
「次は無い」と思って、
 練習するのが、
 物事の上達のコツです。

※等閑(とうかん)
 物事の扱いをいい加減にすること。
 注意を払わないこと。
 なおざりにすること

いつかやる

59段

大事を思ひ立たん人は、去り難く、
 心にかからん事の本意を遂げずして、
 さながら捨つべきなり。

「しばし。この事果てて」、
「同じくは、かの事沙汰し置きて」、
「しかしかの事、人の嘲りやあらん。
  行末(ゆくすえ)難なくしたためまうけて」、
「年来(としごろ)もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。
  物騒がしからぬやうに」
など思はんには、
 え去らぬ事のみいとど重なりて、
 事の尽くる限りもなく、
 思ひ立つ日もあるべからず。
おほやう、人を見るに、
 少し心あるきはは、皆、
 このあらましにてぞ一期は過ぐめる。

近き火などに逃ぐる人は、
 「しばし」とや言ふ。
身を助けんとすれば、恥をも顧みず、
 財をも捨てて遁れ(のがれ)去るぞかし。


命は人を待つものかは。 

無常の来る事は、
 水火の攻むめるよりも速かに、
 遁れ難きものを、
その時、老いたる親、
 いときなき子、君の恩、
 人の情、捨て難しとて捨てざらんや。



[解説]

命は決して人を待ってくれません。

「死」というものは、
 人の都合などお構いなしにやってきます。

もしかしたら、
 明日死んでしまうかもしれないし、
 あさってかもしれません。

自分の命はいつ終わってしまうか、
 誰にも分からないのです。

■いつかやる。

時間やお金に余裕ができたらやる。
定年後にやる。
そうやって、
 人はやりたいことをやらずに先延ばしていきます。
しかし、
 そんなことを言っているうちに、
 「死」は突然にやって来る。

■やりたいことがあれば、
 今すぐにでもやりはじめましょう。


周りの人が何と言おうが、
 非難しようが聞く耳を持つ必要はありません。

 死んだ瞬間に「充実した人生だった」と思えるよう、
 一日一日を全力で生きることが大切です。

家の作り・構造は、夏向けを基本とするのが良い

55段:

家の作りやうは、
 夏をむねとすべし。
冬は、
 いかなる所にも住まる。
暑き比(ころ)わろき住居は、
 堪え難き事なり。

深き水は、
 涼しげなし。
浅くて流れたる、
 遥かに涼し。
細かなる物を見るに、
 遣戸(やりど)は、蔀(しとみ)の間よりも明し。
天井の高きは、
 冬寒く、燈(ともしび)暗し。
造作は、
 用なき所を作りたる、
 見るも面白く、
 万の用にも立ちてよしとぞ、
 人の定め合ひ侍りし。



[現代語訳]

家の作り・構造は、
 
夏向けを
 基本とするのが良い。

冬は
 どんな場所にも住むことができる。
しかし、
 夏の暑い時期は、
 暑さを凌げない悪い住居に住むのは
 耐えがたいことである。

(庭に作る小川や池にしても)深い流れは、
 淀んでいて涼しげがない。
浅くサラサラと流れる様子が涼しげなのである。
室内の小さなものを見る時には、
 扉を押し上げて開く窓(蔀)より、
 両開きの窓(遣戸)の方が明るくて良い。
天井が高いと、
 冬は寒くて、
 夜はともしびの光が届きにくくて暗くなる。
家の普請・作りは、
 (当面は)役に立たない場所を作ったりするほうが、
 見た目にも面白いし、
 何かのときに色々と役に立って良いと、
 人々が話し合っていたよ。
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