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こんにちは!こんにちわ!どっち

「こんにちは」の「は」は、
 
どうして
 「わ」ではなくて
 「は」と書くの?


会話では
 ローマ字表記すると「konnichiwa」のwaと発音するのに

文章になると
 「konnichiha」に変わる。

(わ)と(は)の違い。

平安時代中頃までは
 現代の「konnichiwa」は
 平仮名の「こんにちは」と同様に
 「konnichiha」と発音されていた。


しかし
 「konnichi」の「i」は
 喉に手を当ててみれば、
 喉が震えるのがわかる。

今度は
 「ha」の「h」を発音してみると
 喉が震えない。

 「は」は、無声音といい
 あまり大きな音は出ない。

 しかも
  それは他人には聞こえずらい。


 ということは
  発音してみるとわかるがすごく大変だ。

したがって
 人は楽な「wa」「w」(これを有声音と呼ぶ)を選ぶ。


ということで
平安時代後期から現代まで
 「ha」のかわりに
 「wa」と呼ぶようになった。

 『ハ行転呼(音)』言うそうです。


あらためて日本語の奥深さを痛感した。
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侍と武士

侍 さむらい

侍とは、
 刀を持ち、
 武芸に長け、
 大名などに仕えた日本の武士を指します。

戦国時代から江戸時代にかけて
 戦乱の時代に翻弄され、
 数奇な運命を送りました。

「侍」は人に仕える意味

「侍」という言葉は、
 「さぶらう(候ふ・侍ふ)」という言葉から来ています。

※さぶら・う【候ふ・侍ふ】
 中古に「さもらう」から転じた語。
 初めは謙譲語であったが、
  のちに丁寧語となった。
 中世以降は
 「そうろう」が使われるようになり、
 「さぶらう」は女性語化した

※ちゅうこ【中古】
 国語史の上での中古、すなわち平安時代



元々は
 「人に仕える」という意味の言葉です。


つまり、
 「侍=お役人」 でした。

侍には
 武芸や軍学は必須のものであり、
 武士道と呼ばれる理念に基づき、
 
 主に絶対服従し、
  主の為に命をも惜しまない思想を持っていました。

戦国時代に入ると
 人に仕えているいないに関わらず、
 「武士=侍」 という呼び方になっていきました。

雇われ兵士である「
 傭兵〔ようへい〕」や、
 特定の主を持たない「野武士」なども
 「侍」と呼ぶことが多かったようです。

平安時代に登場
 
侍の歴史は、
 平安時代頃に身分の高い人々に
 お仕えして
 その身辺警護をする人達を
 「侍」と呼ぶようになった事からはじまりました。


この時代に
 侍と呼ばれていた人達は
 武士の中でも比較的身分が高い位の人達でした。

室町時代になると
 侍の定義は多少変化し、
 足利一門(※)に従う者が「侍」と呼ばれていたようです。

やがて足利家の滅亡とともに
 室町幕府が滅び、
 各地で大小様々な争いのあった戦国時代に突入します。

この時代になると、
 戦〔いくさ〕で戦う者の事を
 侍と呼ぶようになりました。


すなわち腕っぷしの強い兵士が
 常に求められていたため、
 どんな身分の者でも戦場での働きによって侍になることが出来ました。

中でも有名なのは、
 油売りから戦国大名になった「斉藤道三」や、
 
 農民の子から戦国武将となり、
  天下を統一した「豊臣秀吉」です。

江戸時代になると、
 幕府のもとで、
 旗本以上の武士階級をさして
 「侍」と言っていました。

ただし、
 士農工商の身分制度が確立した以降は
 「武士」全体を指して
 「侍」と呼ぶようになりました。

やがて明治維新で江戸幕府は崩壊し、
 西南戦争で敗れた
 西郷隆盛を最後に
 侍は歴史から姿を消しました。

※足利一門・・・
 室町幕府の実権を握っていた
 将軍・足利家に仕える家々の総称です。

武士道
  
日本の侍(武士)達は、
 「武士道」と呼ばれる
 独自の
 「理念」
  「思想」 を持っていました。

武士道の礼儀や心得などは
 「武家」によって色々と解釈が異なりますが、
 
一般的に
 「自らの行動や責任に命をかける」、
 「一命を賭〔と〕して殿に仕える」、
 「失敗をした際には自分の命を捨てる覚悟を持つ」
 などというものでした。


これらの「命をかける」という思想から、
 日本の侍には「切腹」という文化が生まれました。


失敗した際には、
 自らの腹を斬り、
 命を捨て、
 けじめを付けるというものです。


西洋において
 武士道に似た「騎士道」というものがありますが、
 自らの命を絶って責任をとるという概念はありませんでした。


「切腹」によって
 自らの命を捨ててまで責任を取ろうとする

「武士道」は、
 世界的にもかなり異質なものであったと言えます。

お花見

花見とは

起源

 お花見の起源は2つあります。

1つは
 貴族文化的なものです。

 奈良朝の貴族にとって
  花といえば梅でした。
 それが平安朝に入って
  梅に変わって桜の花見が
  貴族の重要な行事となりました。

 812年、
  嵯峨天皇が南殿で宴を催したのが
  お花見の最初の風習と言われています。

もう1つの起源は
 農民文化的なものです。

 春になると
  里のものが
  飲食物を持って
  近くの丘や山に入りました。

お花見は
 桜の咲き具合で
 その年の豊凶を占う農事であり、

 古くから行われていたと考えられています。

 花見は
  桃山時代には
  武家の間でも流行しました。

 豊臣秀吉の醍醐の花見(1598年)は
  その豪華さで最も有名です。

 その後、
  江戸時代に入ってから
  農耕儀礼から切り離され、

  貴族の公式行事から離脱し
   花見は庶民の行事となりました。

※貴族の起源について、
  歴史学者の小和田哲男は
  次のような説を提唱している。
 穀物は
  他の食物とは異なり貯蔵することができる。
 よって、
  穀物の栽培を始めた頃から、
  持てる者と持たざる者の差が出てきた。
 そして、
  より多く穀物を所有する者が、
  貴族の起源となったという。

 弥生時代
紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでの500~600年間。
大陸から米づくりの技術が伝わる。
 
 力のあるむらのかしらは、
  豪族となって小さなくにを支配した。


 江戸幕府は、
  都市計画の目的で
  大々的な桜の植樹を行いました。

 とりわけ徳川吉宗は
  都市と農村の接点である江戸の周辺部に植樹し、
  花見の名所が生まれました。

 花見が都市周辺部で開かれたことで
  花見の大衆化につながりました。


花見は日本にしかない?
 桜は
  アジア,欧州など世界の国々にあります。
 しかし
  日本のようなスタイルのお花見をする国は
  (ブラジルを除き)他国にはないと言われています。

 ブラジルで花見をしているのは
  日系人のグループです。
 お花見は日本独特の行事なのです。


花見は日本人の年中行事
 日本の学校や社会のシステムは
  4月に始まります。
 桜は我々のライフサイクルの上で
  節目になる4月に開花します。
 その桜を愛でる花見は、
  今では日本人にとっての大切な年中行事なのです。


日本の桜
 欧米人は
  桜と言うとサクランボのなる木を連想しますが、
 日本人は
  桜と言えば花(cherry blossom)を連想します。

 また
  日本には
  100余以上の栽培品種と30種以上の自然種があると言われています。

 室町から江戸にかけて
  多くの栽培品種が作られました。

 日本で一番多い桜といえば、
  栽培品種の「ソメイヨシノ」です。
 そして
  ソメイヨシノの開花日を
  桜の開花日と称しています。

鯉のぼり

端午の節句は、
 奈良時代から行われている古い行事です。

端午というのは、
 五月の初めの午(うま)の日という意味です。

それがいつのまにか
 五月五日に固定されてしまいました。

奈良・平安時代の端午の日は、
 災厄を避けるための行事が行われる重要な日でした。

宮廷ではこの日、
 軒に菖蒲やよもぎを挿し、

 臣下の人々は
  菖蒲を冠に飾ったり、
  菖蒲の葉の薬玉を柱に下げたりしました。

※あやめ【菖蒲】-日本国語大辞典
 アヤメ科の多年草。
 山野に自生するほか、観賞用として、庭、池辺などに栽培される。


鎌倉時代には、
 武家の間から菖蒲と尚武をかけて
 この日を大切にする気風が生れました。

※しょう‐ぶ[シャウ:]【尚武】-日本国語大辞典
 武道、軍事を重んずること。
 また、軍備をさかんにすること。


江戸時代には、
 端午は幕府の重要な式日となり、
 大名や旗本は江戸城に出仕し将軍にお祝を述べました。

※しき‐じつ【式日】-日本国語大辞典
 特定の行事あるいは職務に当てられた定日。


将軍に
 世継が生れると、
 城中にたくさんの幟や作り物の遣り、
 長刀、兜などを立てて盛大にこれを祝いました。

※幟(のぼり)
 日本における旗の形式のひとつ。
 長辺の一方と上辺を竿にくくりつけたものを指す。
 起源 平安時代以来、
  武士たちは軍容を誇示したり、
  自軍と敵軍との識別をおこなうもの


江戸中期になると
 庶民の間から
 町民のアイデアで鯉のぼりが生れました。

中国に古くから伝わる登竜門の伝説になぞらえ、
 竜門の滝を登り切ると鯉が竜になるように、
 
我子も健康に育ち、
 将来は大きく出世して欲しいとの気持を込めたものです。

また、「わが家に男の子が生まれました。どうぞお守りください。」
 と天の神様に伝え、
 守っていただく意味があるとも伝えられています。

この頃は
 和紙に鯉の絵を描いたものでしたが、
大正時代に破れない綿の鯉のぼりが生まれ、
昭和三十年代の半ばには
 雨にぬれても色落のしない合成繊維の鯉のぼりが誕生し、
 現在に受継がれています。

十二単とは

十二単の十二とは
 「たくさん」とか
 「多い」という意味で実際に12枚は着ていないそうです。


正式名称は
 「裳唐衣(もからぎぬ)」と言います。

裳着
 現在でいう女子の成人式や
 新年、
 公式の歌合せなどの行事の時などの正装です。

長袴、単衣、五衣(いつつぎぬ5枚単衣をかさねる)、
 表着、唐衣、裳の
 合計10枚着用します。

 これで20Kgあるそうです。

平安時代以来、
 公家女性の正装で、
 もとは奈良時代の朝服が変化してできたものです。

十二単という名称は
 後世の俗称で、

 正しくは裳唐衣(もからぎぬ)装束、
  晴装束、物具装束、女房装束といいます。

十二単の構成は
 時代によって異なりますが、
 
現在は
 一番地に肌衣の上に
 白小袖・緋の長袴・単・五つ衣・打衣・表着・唐衣・裳で、
 髪は「おすべらかし」に結い、
 櫛・釵子・平額をつけ、帖紙・檜扇を持ちます。

古くは
 下の白小袖をつけず、
 袴の上に単をじかに着たこともありました。

また、
 五つ衣も五枚と限らず、
 15枚や20枚も重ねたことが文献に残されています。

十二単といっても、
 十二枚の着装物をつけるという意味ではありません。
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