山下奉文

「子供が大人となった時、
  自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、
 平和を好み、
  強調を愛し
  人類に寄与する強い意志を持った
  人間に育成しなければならないのであります。

 これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります」
 (山下奉文 遺言より)


起訴状は昭和20年9月25日、
「1944年10月9日から1945年9月2日に渡り
  日本軍司令官たりし間、
  マニラ及びフィリピン群島の他の諸地点における
  米国及びその同盟国との戦闘において、
  指揮下軍隊の構成員の行動を統制すべき
  司令官の任務を不法にも無視し、
 その職責の履行を怠り
  米国及びその同盟国並びに属領に隷属する市民、
  特にフィリピン人に対する
  部下の残忍なる残虐行為
  その他重大犯罪を許容せり」

 山下大将が訴えられたのは64項目もありました。

もちろん山下大将には
 身に覚えのないものばかりでした。


判決が出た日は
 真珠湾攻撃の日の昭和20年12月7日です。

「無記名投票の結果、
  3分の2以上の裁判官の意見の一致により、
 本軍事法廷は貴下を告訴どおり有罪と認め、
  絞首刑を宣告する。」

処刑日は
 昭和21年2月23日午前2時50分でした。
軍服や勲章及び階級章を全て剥奪され
 作業服で登らされました。

「待てしばし勲のこしてゆきし友 
  あとなしたいて我もゆきなむ」  
 (山下奉文 辞世の歌)


マレーシアの
 ララジャー・ダト・ノンチック元上院議員

 
 山下大将率いる
  日本軍に対しこのように語りました。


★「私たちアジアの多くの国は
  日本があの大東亜戦争を
  戦ってくれたから独立できたのです。


 日本軍は長い間、
  各国と植民地として支配していた
  西欧の勢力を追い払い、
 とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に
  感動と自信を与えてくれました。
 長い間眠っていた自分たちの祖国を
  自分たちの国にしようという心を
  目覚めさせてくれたのです。

 私たちはマレー半島を進撃していく日本軍に
  歓呼の声を上げました。
 敗れて逃げていくイギリス軍を見た時に、
  今まで感じたことのない興奮を覚えました。
 しかも
 マレーシアを占領したヤマシタ日本軍は
  日本の植民地としないで、
  将来のそれぞれの国の独立と発展のために
  それぞれの民族の国語を普及させ、
  青少年の教育を行ってくれたのです。

 先日この国に来た日本の学校の教師は

 「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。
   その事実を調べにきた」と言っていました。

 私は日本人は
  マレー人を一人も
  殺していませんと答えてやりました。
 日本軍が殺したのは
  戦闘で戦ったイギリス軍や
  そのイギリス軍に協力した
  中国系抗日ゲリラだけでした。

 
 そして日本の将校も血を流しました。

 どうして
  今の日本人は
  自分たちの父や兄たちが残した
  正しい遺産を見ようとしないで、
  悪いことばかりしていたような
  先入観を持つようになってしまったのでしょう」


・・・・・

マレーシアは
 かつてイギリスの植民地でした。
イギリスは
 マレーシアを支配するために
 インド人や中国人を移民させて
 複合民族化し分割統治を行って
 非人間的な収奪をしていました。

イギリスは
 マレー人にマラリアの特効薬だとしてアヘンを売りつけました。
アヘンは
 ジュネーブ協定違反ですが
 イギリスはこの協定は
 アジアに適用されないと言って
日本軍に追い払われるまで続けていました。

植民地体制を変えてくれたのは日本でした。

それまでマレーシア人が
 白人に逆らうことはできませんでした。
しかし
 同じアジアの日本軍は
 英国軍と戦って破り
 マレーシアの人々に
 独立させる勇気を与えました。

その後1957年に
 マレーシアは独立しました。


ガザリー・シャフェー元外相は
 当時テロやゲリラ活動をした華僑の処刑や
日本を侵略と言うアジアの国と
 それに同調する日本の政治家に対しこう話しています。

「とくに私が惜しいと思うのは
  日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、

 日本の政治家が否定することだ。

 責任感をもった政治家だったら
  次のように言うだろう。

『その頃アジア諸国は 
  ほとんど欧米の植民地になっていて
  独立国はないに等しかった。
 日本軍はその欧米の勢力を追い払ったのだ。
 それに対して
  ゲリラやテロで歯向かってきたら
  治安を守るために弾圧するのは当然でないか。
 君たちアジアの国々は
  何十年何百年に渡って
  彼らからどんな酷い仕打ちを受けたか忘れたのか?
 日本軍が進撃した時には
  あんなに歓呼して迎えながら、
  負けたら自分のことは棚に上げて
  責任をすべて日本にかぶせてしまう。
 そのアジア人の事なかれ主義が
  欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか』」

マハティールは日本の最大の功績として
 白人と対等に口をきけることだと言っています。
平成7年に
 日本の首相がマレーシアを訪問し
 謝罪外交を行った時に
マハティール首相は
 「日本がいつまでも過去の戦争について
   謝り続けているのはおかしい。
  日本のかつての戦争に関する責任を問うならば、
   アジアを長きにわたって
   植民地化し非人間的な収奪と支配を続けた
   欧米の国の責任はどうなるのか」
 この発言は欧米で反響がありましたが、
  欧米からは反省や謝罪の声は出ませんでした。


「わしは停戦の条件など聞いているのではない。
 今提出してある我が軍の降伏条件を
 英軍が全面的に無条件で受諾するかどうか。
 
 すなわちイエスかノーか、
 それだけを
  日本の武士道にかけて聞いているのだ。
 よいかっ、イエスかノーか、それだけでご返答を承りたい」
 イギリスのパーシバル中将に大声で詰め寄る山下軍司令官。

山下大将が無実だと言うこと、
 言われなき罪で処刑されたことは
 心ある日本人とマレーシアの人々は理解しています。
山下奉文大将が立派な武人だということは
 日本人として誇り高く思います。

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名将 宮崎繁三郎

名将 宮崎繁三郎

日本陸軍の中将だった
 宮崎繁三郎を知っているビジネスパーソン、
 どのくらいいるでしょうか。

宮崎繁三郎は、
 Wikipediaの人物評価部分に、

「上記のような数多くの戦歴から、
 今日においても宮崎繁三郎に対する評価は非常に高く、
 太平洋戦争における日本陸軍の名将とされている。」

 と書かれています。

ただ、一般には非常にマイナーです。
 知っている人はほとんどいません。

「陸士、
 陸大での成績は至って普通であったが、
  前線において大いに能力を発揮する指揮官であったと言える。
 全ての戦歴において、
  宮崎に与えられた権限や兵力は決して大きいとは言えず、
  同じ戦場で同格だった他の指揮官に比べ、
  特別有利だったり優遇されたことは一度もなかった。」

宮崎繁三郎の評価を
 決定づけるのは、
 インパール作戦での戦闘、
 行動全般です。

インパール作戦は、
 無謀な作戦の代名詞に使われるほど、
 ひどい作戦でした。

「1944年のインパール作戦は、
 第15軍司令官牟田口廉也中将による補給を無視した無謀な作戦で、
  多くの犠牲者を出した。
 宮崎は陸軍少将で、
  第31師団・歩兵団長として参戦した。
 彼は険峻な山岳地帯を自ら大きな荷を背負い、
  先頭に立って部下を率い、
  要衝コヒマの占領を指揮した。
 援軍や補給が絶たれて孤立し、
  同地撤退を余儀なくされた際には自らしんがり(最後尾)を務め、
  巧みな戦術により見事な撤退を果たした。
 この撤退時の行動が、
  後に彼が単なる名将に止まらず、
  人格者としてまた理性的軍人として賞賛される要因になった。」

評価されているのは、行動です。

「彼は、負傷兵を戦場に残さないという信念の下、
 自らも負傷兵の担架を担ぎ、
  食料が欲しいと言われれば自らの食料を与えて兵たちを直接励ましたという。
 また他隊の戦死者や負傷兵を見つけると、
  遺体は埋葬し負傷兵を収容させ、
  日本軍の白骨死体で埋め尽くされた
  地獄の白骨街道を撤退し続けたのである。
 そこには宮崎の、 
  軍人としての理性のみならず、
  人としての倫理観をも滲ませた。」

ここでも、
 倫理観を行動に表す人物であることが書かれています。
 一貫性ですね。

「インパール作戦後に第54師団長となった宮崎は、
  1945年4月にイラワジ河下流付近で防衛戦を展開した。
 しかし突如上級部隊であるビルマ方面軍の司令官木村兵太郎大将が
  司令部を放棄し逃亡したため、
  指揮系統を失った宮崎師団は敵中に完全に孤立する事態になった。
 殲滅される寸前で重装備を放棄してペグー山系の竹林に逃げ込んだものの、
  第54師団は補給や連絡が途絶えて今度は全軍餓死の危機に瀕してしまった。
 そこで7月下旬やむにやまれず分散して敵中突破を試みたものの将兵の多くが死亡、
  目的地のシッタン河までたどり着いたのは半数以下であった。
 宮崎はそこでも粘り強く防衛戦を展開して、
  ジュウエジンで終戦を迎えた。」

長いんですが、
 このペグー山系から分散して敵中突破したときの宮崎の無念が、
 後ほどでてきます。

「これだけの戦功を残しながらも、
  自らそれを吹聴するような売名行為をせず、
  また名声を利用した政治的・経済的な活動を慎み、
  戦後は小田急線下北沢駅近くの商店街に陶器小売店岐阜屋を開き、
  その店主として清廉な生涯を終えた。
 
  今際の際、病床を訪れたかつての部下に

 「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」

 と何度もうわ言を言ったという。
 宮崎はペグー山系からの敵中脱出時に
  多くの部下を失ったことを気にかけていたのだった。」

リーダーシップへのヒントとしては、
 一貫性・無私・愛情・責任感、に加えて職務遂行能力、
 でしょうか。
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