神道と神社の施設

『神道(しんとう)』とは 
 万物に霊魂が宿っているという
 
 アニミズム(精霊崇拝)や自然信仰から発展したと
 推測される日本の民族的・伝統的な宗教です。

※せいれい‐すうはい【精霊崇拝】
 アニミズムの一形態。
 精霊の存在を信じ、
  それに対する親愛や恐怖の念から発する信仰。
 原始宗教に多くみられる。

※しょう‐りょう【精霊/聖霊】
 死者の霊魂。みたま。

※れい‐こん【霊魂】
 肉体と別に、それだけで一つの実体をもち、
 肉体から遊離したり、
 死後も存続することが可能と考えられている非物質的な存在。
 魂。



神道とは
 その歴史的な起源から特定の教義や聖典、
 唯一神を持たない

 信仰の自由度の高い多神教の宗教であり、
 
 山や川、森、岩、野生動物、気象(自然災害)など
 自然の万物に宿る
 『八百万の神々(やおよろずのかみがみ)』を
 崇拝するものです。


近代日本の国家神道の神殿である
 靖国神社に『戦死した祖霊』が神として祀られているように、
 死んだ祖先や人間(英雄)が神々になるという思想も神道には含まれています。

自然界の森羅万象や祖霊、
 死者、皇祖(天皇家の祖神)への畏敬の念が神道の信仰基盤であり、
 神道において人間が守るべき徳目は
 シンプルに
 『浄明正直(浄く明るく正しく直く)』としてまとめられています。

※きよ・い【清い/浄い】
 よごれ・にごり・くもりなどがなく美しい。
※しょう‐じき【正直】
 正しくて、うそや偽りのないこと。


神や世界の大いなる理法(図らい)に従いながら
 ただあるがままに生きる
 『惟神の道(かんながらのみち)』が理想とされており、
 神々との間で五穀豊穣や現世利益の
 祈願を含めたやり取りをする『祭祀』が重視されています。

ヤマト王権が成立してから以降の神道は、
 森羅万象の神々だけではなく
 『記紀の日本神話』に登場する神々との結びつきも深くなっており、
 
神道は
 地縁・血縁などで結ばれた部族・村落の共同体を守護する目的で
 信仰される民族宗教としての特色が強くなっていきました。

神道は
 日本国内では約1億600万人(日本人のほぼ全て)の支持者・参拝者がいると
 『宗教年鑑』(文化庁)には記載されており、
 宗教法人として登録されている神社の数は約8万5千にも上るとされています。

神道には
 “儀礼・祭祀”を中心とした
 『社人神道』と“学問(教学)・知識”を中心とした
 『学派神道』とがあるが、
 
神道は
 大きく以下のような種類に分類することができます。

神道の分類

神社神道
 神社施設を信仰拠点として、
 その神社(地域)を支える氏子(うじこ)・崇敬者などが信仰組織を形成して
 祭祀儀礼を行っている一般的な神道の形態。

皇室神道
 皇居内にある宮中三殿を信仰拠点として、
 皇室の繁栄・存続と人々の安寧、
 五穀豊穣などを祈願している神道の形態。

教派神道(神道十三派)
 教祖・開祖の宗教的な神秘体験や教義的な世界観にもとづく宗教としての神道。

古神道
 山や川、森、岩、気象(自然災害)など
 自然界の森羅万象に霊性・神格を認める
 日本で古代から信仰され続けてきた民間神道の形態。

 原始神道・縄文神道と呼ばれることもある。

国家神道
 王政復古(尊王思想)を掲げた明治維新から
 第二次世界大戦の終結まで信仰された国家権力がその祭祀や教義、
 神社間の序列を制定した神道。

新思想系の神道
 大本・生長の家・白光真宏会・世界真光文明教団・崇教真光・
 ス光光波世界神団・神道天行居などの比較的歴史が浅く、
 特定の教祖や教義に基づいて布教されている神道の形態。


神道では
 あらゆる事象に神々の霊性を認めて八百万の神を崇拝しますが、
 
『自然崇拝・祖霊崇拝・皇室崇拝・死者の神格化』などの様々な特徴を持っており、
 
特に古神道では
 神々が鎮座する山や川の自然領域を『神奈備(かんなび)』として聖域化していました。

神奈備には
 神の拠り代(よりしろ)・御霊代(みたましろ)として、
 『神籬(ひもろぎ)』や『磐座(いわくら)』と呼ばれる自然の事物がありますが、
 
神籬とは
 鎮守の森や神体山、
 御神木のことであり、
 磐座とは巨岩(巨石)のことです。

神奈備は
 また『常世(とこよ・神の国の神域)』と
 『現世(うつしよ・俗世の現実世界)』との端境(はざかい)の境界線として機能しており、
 神々と現世とを隔てる為の『結界』としても認識されていました。

※かむ‐なび【神奈備】
 上代、神霊の鎮座すると信じられた山や森。
 かみなび。かんなび。


神道に属する神々を祭神としている社を『神社(じんじゃ)』といいますが、
 日本にある全国の神社の大部分は
 『神社本庁』という宗教法人が組織的に統括する形式になっています。

現在の神社神道の神体は
 『社(やしろ)』であり、
  
自然の森や山、岩、滝などの『神奈備(かんなび)』は
 公式にば拠り代としての性格を失っているとされますが、
 
現在でも歴史の古い神社では、
 社の拝殿・本殿が存在せず、
 自然の神奈備そのものを賽神として
 祀っている神社も残っています。

花窟神社 神倉神社 神内神社など

社殿のない、岩壁をご神体とする神社。
かつての熊野の自然崇拝の有り様を現在に伝えている神社のひとつです。
 
明治に神社合祀が行われる以前の熊野では、
 社殿がなく岩や老樹大木を祀っている神社も珍しくはなかったのですが、
 現在では合祀のためにそのほとんどが失われてしまいました。




神代(上代)の神社は
 神奈備(神籬・磐座)を御神体として社殿がなかったと推測されていますが、
 
現在の建築物としての社殿を伴う『神社』は、
 自然由来の神々を祭祀する時に御神体から移して祀られた祭殿が起源であり、
 これが信仰拠点の建物として常設化したと考えられています。
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徐福公園

方士・徐福(じょふく)の渡来伝説

徐福像
JR紀勢本線の「新宮駅」から東へ100mほどの所に、
 ひと際色鮮やかな楼門が建っている。
この中国風の楼門が、
 「徐福公園」の入口である。
ここには、
 紀州藩祖徳川頼宣公が建てた徐福の墓がある。
その徐福の墓を中心に、
 平成6年(1994)に公園として整備された。


公園内を見学する前に、
 徐福とは何者なのか確認しておこう。

徐福は、
 中国で初めて全国統一という覇業をなしとげた秦の始皇帝の時代、
 秦に滅ぼされた斉の国の方士、
  すなわち神仙道や医方術の士であったとされている。

司馬遷(しばせん)が紀元前91年ごろ完成させた『史記』の秦始皇本紀に、
 徐福に関する有名な話が記載されている。

それによれば、
 中国全土を支配し、
 望むものすべてを手に入れた始皇帝が、
 不老不死の仙薬を求めていると聞いて、
 
徐市(じょふつ)は
 「海中に三神山あり、蓬莱・方丈・瀛洲といい、仙人がこれに居る。
  童男女と之を求むることを得ん」と願い出たという

(『史記』では、
  徐福を徐市の名で表わしている)。

そこで、
 始皇帝は
 徐市に童男童女数千人をつけて海上に送りだし仙薬を求めさせた。

 始皇28年(B.C.219)のことである。

しかし、
 それから9年を経過した始皇37年(B.C.210)、
 徐市は莫大な資金を費やして旅立ったにもかかわらず、
  得るものなく帰国した。

始皇帝は
 「徐市ら費すこと、巨万を以って計うるも、終に薬を得ず」と大いに怒った。

叱責を恐れて、
 徐市は始皇帝に対し、
 「大鮫に邪魔されてたどり着くことができないので、
  射手を用意していただきたい」と偽りの奏上をしたとされている。


徐福渡来の図絵(新宮徐福協会作成パンフより)

『史記』の准南衡山列伝では、
 別の話を載せている。

仙薬を求めさせた徐市は帰還すると、
 「海中の大神は始皇帝の礼が薄いという理由で
   延年益寿の薬を取ることを許さない。
  良家の童男童女とさまざまな分野の技術者を連れてくれば叶うと言っている」
  と報告した。

 不老不死の薬を得たい始皇帝はおおいに喜んで、
  良家の童男童女三千人と
  五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐市に託して旅立たせた。

 徐市は、
  平原広沢を手に入れ、そこに留まって王となり、二度と帰らなかったという。

阿須賀神社

阿須賀神社(あすかじんじゃ)
和歌山県新宮市阿須賀1-2-25

熊野速玉大社・境外摂社

御祭神は、事解男命(ことさかのおのみこと)です。

※事解男命は、
 黄泉国で
 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が
 伊邪那美命(いざなみのみこと)と出会い、
 交わした言葉から生まれた神とされています。

配祀神として、
 熊野三所大神がお祀りされています。

※熊野三所大神
 熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ・伊弉諾尊)、
 熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ・伊奘冉尊)、
 家津御子大神(けつみこのおおかみ・素盞鳴尊)。

社伝では第5代・孝昭天皇の代の創建とのことですが、詳細は不明。

境内からは
 弥生時代の遺跡が発掘されており、
 付近には神奈備(神がいる山)
 蓬莱山(ほうらいさん)がそびえ、
 かなり古くから信仰の地となっていたようです。

平安時代、
 熊野権現が信仰の対象となってからは、
 事解男命が熊野速玉大社より勧請。

本地仏として大威徳明王が祀られました。

平安時代後期からの熊野参詣では、
 阿須賀神社に参詣することが常であったと見られ、
 「中右記」には「参阿須賀王子奉幣」と記されている

神倉神社

人々は古代から
 大きな岩、滝、木などの自然物には神が宿っているとして崇拝して来た。

日本書紀に
 「天磐盾(あまのいわたて)」とされる
 大きな岩がそそり立っているのが神倉山である。

神倉山の頂上には
 御神体の通称「ゴトビキ」岩といわれる
 巨岩がはるか太平洋のかなたを見据えているかのように乗っかっている。

神体石とも言われ、
 磐座(いわくら)
 あるいは石神で起源は
 原始宗教にさかのぼる。

霊気に満ちた場所として
 千古以来信仰の的となっていたが、
 仏教が伝来してからは神道と仏教が融合した神仏の霊場となり、
 修験道も生み出した。

熊野の神々(三所権現)が
 最初に降り立った霊地であると伝えられ、
 熊野信仰の一根源として最も聖なるお山とされている。

参道の
 鎌倉積の石段を含め、
 神倉山一帯は県指定の史跡となっている。



神倉神社のお燈まつり

聖地・熊野に春を呼ぶ男の火祭り、
 神倉神社の「お燈まつり」は毎年2月6日の夜、斉行される。
この祭りは、
 熊野年代記に、敏達天皇3年(574年)正月2日に神倉山が光を放ち、
 翌4年の正月6日夜、
 神倉火祭り始まると記されている

 歴史ある炎のみそぎ神事で、
  約2600年前、
  神武天皇東征の際に祭神・高倉下命が師霊(ふつのみたま)の剣をささげ持って山を駆け下り、
  支援に馳せ参じたという故事に形を倣って始まったといわれ、
  県指定無形文化財にもなっている。

2千人前後の上り子(祈願者)が、
 白装束に身を包み、荒縄を胴に巻いたいでたちで、
 五角錐の松明に御神火を受け、
 一年の家内安全などを祈願し、
 急峻な538段の石積段を駆け下りる奇祭で、
 その様は「お燈まつりは男のまつり、
 山は火の滝くだり竜」と新宮節にも唄われている。

火には全てを焼き尽くす力と、
 太陽のように全てを育てる生命力があり、
 古代よりこの火への畏怖と恵みに感謝する心が示された祭りで、
 上り子が松明の燃え残りを持ち帰り家に祀るのも
 (神霊をいただいて帰る)熊野独特の神迎えを意味している。

お燈まつりは
 神の火をいただく神聖な神事であり、
 その火の受け手である上り子は、
 心身共に清浄でなければいけない。

昔は何日も身を清めてから上ったと言われている。

最近は、
 当日入浴や禊ぎで身を清めた後、
 真っ白な装束に身を包み、
 胴に荒縄を三または五や七巻きに締めるとともに、
 上り子の当日の食事も豆腐や白かまぼこ、
 大根おろしや白米といった白い物に統一されている。

すべて潔白を意味し、
 身に穢れがないことを示す。

松明にご神火をいただき各家に迎えられて神事が終わる。



≪お燈まつり上り子当日のタイムスケジュール≫

16:00頃 
 上り子白尽くめの夕食を済ませ、白装束に着替える。

18:30頃まで 
 上り子三社参り(阿須賀神社・速玉大社・妙心寺を巡拝)

19:00過ぎ 
 上り子神倉神社境内で待機 宮司、神前岩影で火打石により斎火(いみひ)をつくる。
 神殿開扉、大松明カガリ御供、御神酒を供え、宮司の祝詞

19:30頃  
 大松明に点火、大松明を中の地蔵に移動、
 中の地蔵では、上りこの代表が持つ松明に点火し、
 上がり子が山上へ登る代表が上った後山上鳥居の扉を閉める

19:45頃  
 上り子の松明全てに点火

20:00頃  
 介釈が山上鳥居の扉を開く、上り子が一気に石段を駆け下りる。そのまま自宅に帰る。

ご祈願の仕方

一生の中には、
 何度も神様にお願いしたいと思うことが出てきますね。
 
「人事を尽くして、天命を待つ」

 といいますが、

真剣に生きている人ほど、
 それが実を結ぶように、
 神様に祈る気持ちになるのではないかと思います。

 
仕事でも、
 受験でも、
 スポーツでも、
 ここ一番に「運が味方」してくれて、
 すばらしい結果が出せるようにしたいですね。

また
 人の力ではどうにもならないことに出会ったとき、
 人の命のこと、
 五体満足に赤ちゃんが生まれてほしいとか、

反対にお医者さんにさじを投げられて死の宣告をされたときなど、
 今まで神様を信じたことのない人でも、
 「どうかお願いいたします」という気持ちになります。
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